2008.9.19.

大槻の古巣に当ります川崎医科大学内科学(血液)

「同門会誌2008」 



が刊行されまして届きました。

同門会と共に,和田教授のご昇任祝賀会も兼ねた会でした。

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さて,同門会誌に昨年の11月に寄稿文を作成して,掲載していただきました。
読み返してみると,当時,なんだか悶々としていたのかなぁ・・ってちょっと辛くなりますが,まぁ,仕方無いでしょう!


タイトルは・・・(長いですけど)以下です。


象牙の船に銀の櫂,月夜の海も見つからない

和田先生,おめでとうございます。
益々,首を垂れる稲穂の秀穂(先生)でしょうけれど・・・・・。
翻って私は
月夜の海に浮べてもらえば忘れた唄も思い出す
そんな金糸雀にも,もうなれないかも・・・・・。


和田先生,教授へのご昇任,まことにおめでとうございます。

何事にも真摯に正面から対峙される姿勢をずっと貫かれていたこと,大学〜附属病院を通しての卒前卒後教育の大きな流れの中で余人を以って代え難き重要な役割を担ってこられたこと,そして,診療・研究面においてもその誠実さと,加えて誰かに評価をしてもらうなどというためではなく必要であれば自ら苦労を厭わずに人知れぬ汗をかかれていた態度をこそ漸く評価されてのご昇任だと思っております。素晴らしいことです。大学もまだまだ人物を見る目が残っているなぁと少し望みをつながせてもらいました。

僕が血液内科に入って,和田先生が研修医の頃・・・僕は途中已めの幽霊部員だったオーケストラ部で,和田先生は部長も務め,また,僕の弟がファゴットだったもので,クラリネット担当の和田先生には木管パートとしてもお世話になっていた関係で,それなりに知っていたものですから,よく廊下などで出会う度に「男の内科は血液内科! 是非,入りなさい!」と伝えたものでした。和田先生からは大槻が「男の内科」と云っても,説得力が無い! って笑われもしたものですが・・・・・。結局,和田先生は入局してくださいましたが,その時に僕は大学院・・・僕が院を終了して病棟に戻った時には,和田先生が院であったり,出向であったりで,結局,半年弱くらいしか一緒の病棟で仕事をしたことはなかったままではありますが,彼の丁寧な仕事振りを話に聞くに付け,大雑把で極端に走り易い僕は,いつも感心していたものでした。

その上,大槻は一応血液関連の仕事で留学したにも関わらず戻ってくる時には,衛生学所属となり・・・・その後は・・・・次第に血液内科とは縁遠くなってしまいまして,最近は,カリキュラム関連の会議などで出会うことしかなくなってきていました。

いずれにしても,ある面,僕は臨床から離れた位置で,和田先生が本当に大変な状況の中,着実に自らを厳しく律しながら,それでも患者さんのために,そして,若き研修医や医療チームを形成する多くの人たちのために,努力をし思案を練り,よりよき医療が達成されるために,奮闘されてきたことを,垣間見て来た様にも感じております。そして,それは教授職/部長職となられることで,一層の責任と決断が付随してくるものでもありましょうが,きっと与えられた責務以上に,大学に,病院に,そして医療全般に貢献してくださるものと信じております。本当に大変でしょうけれど,是非,頑張ってください。大いに期待しております。

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さて,翻って私は・・・・あれあれ,今は何をしているのでしょうか? 

留学から帰る時に,臨床をするよりも実験に明け暮れる方が性に合っているのではないか,なんて思って,親不孝も省みず,大学の中では応用医学と分類はされておりますが,もっと大別すると基礎系でしかない衛生学に入りました。不惑の40歳にも拘らず,それまで行っていた骨髄腫を中心とした血液腫瘍の研究から,珪酸やアスベストの免疫影響という教室のテーマに入り込まねばならず・・・・・しかし,実はいろいろと教室内の事情もあって,最初3年くらいは,骨髄腫を引きずりながら両方の仕事をして,その後4年ほどは,どちらかというと骨髄腫関連の仕事ばかりしていました。その当時には,血液内科の大学院生の矢田先生や辻岡先生と一緒に仕事も出来たりして,助けてもらったことも記憶しております。
まぁ,衛生学っていうのは,非常に門戸の広い領域で,骨髄腫をマテリアルとしながら発癌機構あるいは腫瘍進展機構を解明する,みたいなお題目さえ唱えていれば,別段,衛生学でもOKだったのですが・・・・。しかし,幸いといいますか,僕の場合はただ単に瓊脂だったのですが,2003年に衛生学で教授職を拝命しました。その後半年ほどで思ったのが,まず,骨髄腫の仕事って血液内科の中でもマイノリティであること,そして本学の衛生学の教室にはMDの先生が入ってくる可能性も非常に低く臨床的な背景を伴いながら骨髄腫の研究をしてくれる人材は期待できないかも知れないこと,non-MDの人材はそれでも来てくれるかも知れないこと(当時は,前教授時代からのnon-MDの方が2名在籍されてましたし),そうであれば環境中物質の免疫影響という観点はまだ人材を集めるのにベターかも知れないこと・・・・・それとは,別に,丁度教授に昇任させていただいた年の夏に骨髄腫を専門にされている同年代の先生,あるいは環境と免疫に関わってらっしゃる同年代の先生の,それぞれ1時間程度の特別講演を聴く機会があったのですが,僕自身はその当時,偉そうに両立させてやっていくぞ,なんて不遜にも思っていたのが,その両方の講演を聴いて,僕自身がどちらかに集中したところで,その先生方ほどの実績を積めないのではないか,ましてや二兎追いの一兎をも得ず状態になるのは必至,と感じてしまったこと・・・・・そこから翻って教室のことを考えると,いずれにしても衛生学は最大枠5名の小さな所帯で,狭い庭に別々の木を2本植えた処でどっちもが栄養不足になりどちらも全く育たないのではないかっていう危惧に震えたこと・・・・・等々が,重なってその時点で,骨髄腫の仕事はもうquit,ひたすら珪酸やアスベストの免疫影響に集中しよう! と誓ったのでした。

幸いというか,教室の所謂リニュアルも順調に進み,平成20年度には,研究職5名,大学院生1名,留学生1名,テクニシャン2名に研究補助員さんが大学として割り当てていただいている2名という布陣になりそうで,研究に否応なく邁進しなければならない状況になってくるように期待しています。

教授就任の年の夏,助手をまぁ近くからということで岡大の医学部ではないにしても,理学部や農学部や薬学部などの生命科学関連の領域から公募したいなぁって思った時に,ホームページもない様な教室にはなかなか若い人材は入ってくれないだろうってことで,8月一杯くらいを掛けて,新たに専用ソフトを購入し試行錯誤で教室のHPを立ち上げました。最低でもどんな仕事をしているのか,また,業績がどうかってことを載せておかないと誰も入ってくれないだろうって危機感から衝かれる様に作成したものでした。それが今では「今,何をしているの?」って聞かれると自嘲気味に「僕の仕事は教室HPの管理です」としか答え様のない状況にもなっておりますが, では,教室関連の近況などを紹介したり,勿論,業績や人事往来,教育関連の資料などを随時提示しています。また,お立ち寄りください。

ただし・・・・・そうやって教室を預かるようになって5年がほぼ過ぎようとしていますが,今,僕自身が何を日頃しているかっていうと,前述した様にHPの管理更新をしていること,大学教育関連や学生指導関連の会議に出たりワーキンググループでああでもないこうでもないってすったもんだしていること,そして,追われる様に学会に参加していることだけなのです。

最近いつとはなく思うのは,僕は何をやっているんだろう,何をしたいのだろうって感覚! 

特に昨年50歳を迎えて,いくつかの同窓会の支部に呼んでいただいて同級生と話をしたり,また,同期入学前後のメンバー80人くらいでのmailing list でやり取りをしていると,確かに,開業した皆は,それなりの大変さを抱えながらも結構裕福に暮らしている様子を垣間見せてくれます,でも,そうであっても,彼らは皆日々患者さんを診ている訳ですよね。翻って僕はというと,血液内科で臨床に携わらせていただいていたにも関わらず,いつの間にか,臨床より実験の方がいいやって基礎系に入ってしまって・・・・・それでも,自分の手を動かして日々実験だけに集中していた日々は,その毎日の研究成果が遠い将来かも知れないけれど,どこかで健康の不都合に苦しんでいる人々の福音になるのではないか,という淡い期待の中で医学研究を行うことが出来ていたのです。ところが,今は,学会に行ってはいろんな人たちに頭を下げ,大学に居る時にはなんだかんだと書類作成に終われ・・・・・教育関連でも,せめても自分の専門領域の授業をするならいざ知らず,狭いカンファレンス室の中で概念遊びのカリキュラム策定だったり,そのためのある意味不毛な論議にばかり時間を費やされ・・・・今僕自身が使っている時間のどの断片を繋ぎ合わせれば,本当に健康の不都合に困っている人に少しでも貢献できるんだろうかって思うと,なんだか,毎日砂上の楼閣ではないですが,さらさらと風に飛ばされ,波に崩される虚構の城を築く振りして遊んでいるだけの様に思えてなりません。

勿論,学会活動やいろんな書類作りが,教室全体の研究費の獲得にも作用している筈で,そうして,自らが手を動かして実験するには限界があるところを,充実した人員を揃えて,僕自身が考える研究の方向性に沿って,教室員が一丸となってテーマに取り組んでいくことが,究極的にはやはり健康の不都合で苦しまれている人たちに貢献できることは分っています。また,よりよい教育の枠組み作りや医学教育の潮流を認識しながら川崎医科大学で行える実務的な案を練ることで,将来の良医育成につながること,あるいは心あるそして志ある若き優秀な医学生に出来るだけ良いシステムを与えてあげて,彼らが遠回りしなくても立派な医師になる道筋をつけてあげないとならないことも分ってはいます。でも,それらは,どうも遠くにありすぎて,実感がない。僕だって,毎日患者さんの病室に行き,聴診器を患者さんの胸に当て,点滴を取るのに四苦八苦していた頃がありました。朝一番に大学に入って,まずはPCRを掛けて,その後別のゲルを流して,漸く居室に辿りつくのは玄関を入ってから1時間も経ってから,なんて時代もありました。なのに,今は・・・・ひたすらに自分の部屋でPCのモニターに向き合っているか,学会に向けて車窓を眺めているか・・・・・。形に残るものはHPの画像だけ・・・・・。こんなことでいいのだろうか? あの頃,30年ほど前に一緒に机を並べて授業を受けていた皆が,日々患者さんの病を治してあげているのに,僕はこんなところで,キーを打つだけの時間の浪費でよいのだろうか? どこに岐路があって,僕はどこで彷徨って,こんなことになったのだろうか・・・・・?

こんなことを思いながらも,昨年度からは科学技術振興調整費という内閣府直属の科学技術総合会議からの資金をいただいてアスベスト問題や悪性中皮腫に関連する国民の不安を解消すべき大型プロジェクトの代表になって,次年度は3年目の中間審査を迎えて,益々,書き物にも努力しないとなりません。
また,本当に骨髄腫研究からも決別という意味で,大学院の頃から樹立してきた細胞株も,漸く全部,医薬基盤研究所の細胞バンクに委譲して,株譲渡の申し出もすべてそちらでしてもらえるように(まぁ,購入してもらうってことですが)なりました。
2006年には日本免疫毒性学会という300人規模の小さな学会でしたが,年会長を務めさせていただき,倉敷市芸文館で開催いたしました。また2009年度7月には,岡山市のSANTA HALL (山陽放送社屋ビル)で日本臨床環境医学会というこれも300人規模の学会ですが,主催することが予定されています。

そうやっていても,どこかで自分のしていることが実像を結んでいないという感覚から逃れることが出来ません。

唄を忘れた金糸雀は,西条八十氏によりますと,後の山に棄ててもならず,背戸の小藪に埋けてもならず,ましてや柳の鞭でぶってもならず, 象牙の船に銀の櫂,月夜の海に浮べれば忘れた唄をおもいだすそうですが,僕はもうそんな金糸雀にもなれそうにもない感覚で一杯です。

だからと云って,誰かに助けを乞う事も出来ません。誰かに慰めてもらうことも出来ません。曲がりなりにも教室を預かり,少ない人員ながら我々の教室のテーマに共感して,日々実験に没頭してくれている若い研究職の皆が,今後とも充実した研究生活を送ることが出来,そのためには,我々の教室に居る間に,着実に業績を積み上げ将来巣立って飛翔してくれる様に,最大限の支持をしていかなければなりません。

遠い記憶の片隅に残された,自分自身が唄っていたあの患者さんたちとの触れ合いや,成果の出ない実験でも頭を捻って手技に悩んで少しずつ結果を出していった頃の努力の感触を,それでも気力を振り絞って呼び戻すことによって,若い皆の努力に報いて,教室全体の総和が人数分だけ加算される,というよりも,乗算される様にと願って,毎日を過ごさなければならないと思っています。

同門会への寄稿ということで昔日を振り返ってしまうと,ついつい云ってはならない世迷い事を並べてしまいました。反省,反省! 

改めて前を向いて,一歩ずつ歩んでいかなければ・・・・・なのです。



最後にもう一度,和田先生,教授へのご昇任,本当におめでとうございます。先生の持っている力を出し切って,出し切る処から,それまで以上のエネルギーの源が生まれてくると思います。頑張りましょう。僕も泣き言を云わずに,精一杯,頑張ります。すべての人々の健康のために! やはり,それが旗頭になるのでしょうから!!!


PS:2007年秋のとある学会での発表の様子の写真を付けます。また,皆様,是非,HPにお立ち寄りください。

その本文末尾の「PS」にある写真は以下です。